漆原朝子さんの演奏でシューマンのヴァイオリンソナタ第2番を

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漆原朝子さんのヴァイオリンとバリー・スナイダーのピアノでシューマン作曲のヴァイオリンソナタ第2番を聴きました。

 

情感に満ちたふくよかな音色をヴァイオリンが奏でています。それは、しみじみとした味わいを聴かせて、心に染み渡る様に響かせるものとなっているのです。それに加えて時として内面に熱のこもった感情がジワジワと現れる事やパッと出るもあり、音楽を更に深みのあるものにしています。それだけでなくシューマンの詩的な感覚と内省的な情感に哀愁も添えられていて、ヴァイオリンにはこの様な歌わせ方があるものかと感心させられます。

 

一方のピアノはと言うと、ヴァイオリンの引き立てをなるべく行い、ピアノの音自身が出しゃばり過ぎない程度にそっと音を紡いでいます。花を添える役にヴァイオリンは徹していて、控えめながらも情のある旋律で音楽の下支えをしているのです。時には穏やかに心を和らげる場作りをすることもあれば、時には感情の昂りの補佐をやっていて、ヴァイオリンソナタらしさを感じさせます。

 

ちなみに、このソナタは1851年作曲でシューマンの亡くなる5年前の作品です。これを作るにあたっては第一ソナタの反省点を踏まえて、二つの楽器のバランスや構成・統一性に配慮していました。なるほど、これなら完成度の高くてシューマンらしさの溢れたソナタが出来上がりますし納得です。その一方で、当時のシューマンデュッセルドルフで指揮者もやっていましたが、自分の精神不安などから団員にも敬遠され、新聞にも悪評が書かれることもありました。そんな繊細な不安定さも見事に曲に投影されていて、彼らしい上質な作品となっているとも言えましょうか。

 

 

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アシュケナージの指揮でマーラーの第一交響曲を聴きました

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ウラジーミル・アシュケナージの指揮、シドニー交響楽団の演奏でマーラー交響曲第1番を聴いてます。

 

温和でふっくらとした音響が特徴的で、時として恰幅よく音楽が展開していきます。歌心にも満ちていて、暖かい春を謳歌するかの様です。この点からは、作曲者の純朴な詩情を余す事なく表現するアシュケナージの姿勢が窺えますね。

 

打楽器や金管楽器が登場する部分では、巨人の様な大きさを感じさせますが、巨人は巨人でも穏やかに見守ろうとする慈悲深さをこの演奏では表れています。指揮者自身の人情味がハッキリとにじみ出ているとも言えましょう。

 

時折、曲の速度の上がる時もあり、その点からは春の穏やかな側面だけでなくだけなく、活気をもって生き物や人々が動こうとする一面も表現しています。単に温和さだけを表さずにちゃんと起伏を付けて展開していく所は聴き手を飽きさせません。

 

ちなみに、この第一交響曲には巨人という標題がありました。これはジャン・パウルの小説『巨人』に由来するもので、その内容は主人公が様々な経験を経て成長していくという筋書きです。しかし、これはあくまでも聴き手が理解しやすくする為の後付けに過ぎません。聴衆の間違った認識を避ける為、この標題をマーラーは削除したのです。ただ、この曲自体は規模も大きくて静かな所やテンポの速い箇所があり、短調の暗い部分もあれば長調の明るく進みます。そういった紆余曲折がある為、巨人という標題は渾名としてなら悪くは無いかなと私は思っています。

 

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イザベル・ネフの演奏で大バッハのチェンバロ協奏曲第4番を聴きました

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イザベル・ネフのチェンバロ、ヴィクトル・デザルツェンス指揮、ローザンヌ室内管弦楽団の演奏で大バッハチェンバロ協奏曲第4番を聴きました。

 

チェンバロのソロが精巧で、技術的な緻密さがよく分かるものとなっています。よくよく聴くと職人的な味わいが堪能出来るのです。作曲者が単に技巧を披露するのではなく、ちゃんと味わって聴けるように作曲した事がよく伝わってきます。そんな意匠を洗練させて音にしています。しっかりと音を噛み締めて奏でているのです。

 

弦合奏は、多少の重みがありつつも一歩一歩をしっかりと踏みしめ、着実に音楽を進めています。それ故に、グッとくる様な聴きごたえのある作りとなっています。芯の太い音響づくりでもって、弦楽器だけながらも偉大なバッハ像を築き上げているとでも言いましょうか。

 

因みに、この演奏は1951年のモノラル録音です。時代的にはチェンバロも現代式のものが使われていて、ピアノの様な力強い音となっています。要するにモダンチェンバロは、音を出す原理にピアノの製作法が応用されていて、時代に合う様に作られてます。力強くハッキリと音を出します。この録音の頃はバッハが生前使っていた様な昔ながらのチェンバロ、いわゆるピリオド楽器は時代遅れで演奏効果が薄いと見做されたのでしょう。サラサラとした耳障りでザラザラと装飾をつけるのはダサいと当時録音した人達は思ったのかもしれません。ですが、現代での当時の楽器の再現でバロックや古典派の音楽を演奏する風潮とは対照的です。私としては同じ演奏家が前者と後者で同じバッハの曲を演奏して違いを講義するという企画もあったら面白いのになと思っています。

 

 

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ミヨーのハープ協奏曲をケント・ナガノの指揮で

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ケント・ナガノの指揮、リヨン国立管弦楽団の演奏でミヨー作曲のハープ協奏曲を聴いてます。

 

音の曲線がクッキリとしていて、耳によく伝わる演奏となっています。旋律がよく磨かれていて、明瞭さが際立つのです。

 

この協奏曲ではハープが主役という珍しい曲となってきますが、その楽器の特徴をふんだんに活かしています。キメ細やかでたおやかな音色を奏で、女性の品格を旋律にしたかなような凛とした美しさを十二部に感じさせるのです。

 

一方、オーケストラはその様な気品のある独奏を引き立てる為、控えめながらも上品なハープの空間を醸し出し、優しげな音響を紡いでいます。そんな音の中には、打楽器・金管楽器も登場しています。これらの楽器とハープが同時に音を鳴らす事は、通常の管弦楽曲ではそうそうありません。それらの楽器がハープ主役の曲でまさか使われるとは思いませんよね?マーラー交響曲が良い例です。ですが、それらが強めの音を出して、メリハリを付けたりちょっとした味付けをする時には、ハープと同時に鳴る事もあり、面白い特徴のあるものとなっていています。比較的穏やかな曲調の中で、普通は交わらない楽器同士の協奏がとても個性的です。他には無い様な発想の管弦楽法で色付けを行いつつも、自らの個性をやんわりと盛り込んで曲を作ったミヨーの才能も充分に感じさせます。

 

因みに、この曲の作品番号は353で作曲年代が1953年です。この時のミヨーは既に61歳と音楽家として円熟の域に達していました。時代的には第二次大戦も終わり、母国のフランスも戦後処理が落ち着いて平和に向けてより動こうとしていた頃でもあります。彼の多作ぶりにも驚かされますが、このハープ協奏曲はひと段落ついた時のちょっとした安堵と年齢的な熟達がとても感じる隠れた佳作です。

 

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エマヌエル・バッハのピアノとチェンバロの為の二重協奏曲を聴きました

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エマヌエル・バッハチェンバロとピアノの為の二重協奏曲を聴いてます。リー・シュターデルマンのチェンバロ、フリッツ・ノイマイヤーのフォルテピアノ、アウグスト・ヴェンツィンガーの指揮、バーゼル・スコラ・カントールム合奏団の演奏です。

 

全体的にはゆっくり目な演奏で、音の一つ一つをじっくりと聴かせていこうとする深い味わいがあります。それ故に音響面でも集めなものとなっている上に、各々の楽器の音色も聴きとり易いです。古典派の協奏曲と言いますと、どうしても管楽器が弦合奏に埋もれがちなのですが、その傾向があまり無くそれぞれのパートの音がよく聴こえています。

 

それから、この演奏での曲の深みと音響の厚さに関していえば、父の大バッハに通ずるものがありますね。決して華々しくは無いものの、深く思索する様な哲学性を彷彿させます。演奏する側も作曲した側もこの大作曲家への畏敬を払いつつ作り上げている意図を感じさせます。偉大な父にして我ありといったところでしょうか。

 

この曲に関しては、別の演奏家のもので一度取り上げましたが、今回のこの録音は1961年でモノラルです。その為、若干時代を感じさせる古めかしい音質であります。それから、この時代と言いますと、バロック音楽でも現代楽器で演奏される事が当然の時代でした。故に、その時世でフォルテピアノを用いた演奏はとても貴重です。その点からも歴史的な重みがあり、ピリオド楽器の盛んな現代の先駆けとも言えます。この様な流れがあって今があると考えると感慨深いです。それでも私はこの曲を現代版のピアノとチェンバロで聴きたいという欲求もありますけどね。

 

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エーテボリ交響楽団の演奏とネーメ・ヤルヴィの指揮でグリーグの交響的舞曲を

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エーテボリ交響楽団の演奏、ネーメ・ヤルヴィの指揮でグリーグ作曲の交響的舞曲を聴きました。

 

柔らかな音響を基調として、心に染み渡る情緒で満ちています。感傷的な旋律も度々出てきますし、その点からはグリーグらしい温かみある個性を感じさせます。ノルウェーの民族性を象徴する独特の音階も丁寧に奏でています。

 

それから、どの楽器も明瞭に聴こえるよう気配りがキチンとなされています。様々な音色を聴き取って楽しむという管弦楽の醍醐味もしっかりと味わえるように演出しているのです。

 

短調のメロディとなる部分では作曲家の出身国らしい寒さを感じさせます。その一方で長調のメロディでは、ノルウェーの家庭における暖炉のような温かさがあります。それと同時に冷たくも心地よい潮風を思わせますし、その国らしさを十二部に感じられるように音作りがなされているのです。

 

因みに、この曲は1896年に元々ピアノの連弾用に作られました。その2年後に管弦楽への編曲がなされています。年齢的にはグリーグは43歳から45歳となっていて、作曲家として働き盛りだった頃の事です。それより前の1877年から自国の民俗音楽に傾倒していましたし、その学びの成果がこの曲にもしっかりと表れていると言えましょうか。

 

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内田光子さんのピアノでモーツァルトのピアノソナタイ短調を

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内田光子さんのピアノでモーツァルト作曲のピアノソナタ第8番イ短調を聴きました。

 

モーツァルトにしては珍しい短調の作品です。私としては、彼の歌劇「魔笛」の夜の女王のアリアのようにバリバリの暗さを伴った劇的な疾走感を連想しました。第三楽章の第一主題ではそれが顕著です。しかし、第一楽章で彼女はこのソナタを温かみのある調べで、悲痛さを伴わずにモーツァルトの影の側面をそっと奏でています。ピアノという室内向けの側面を前面に押し出しているとも言えましょう。

 

それから、とても細やかに音のグラデーションを紡ぎ上げていて、いかにモーツァルトが卓越した作曲家であると同時にお洒落な音楽家であったかをまざまざと思い知らされます。微妙な音の強弱の対比を重ね上げては、ハッキリと分かる音色の違いを聴かせます。さっきはそっと囁いてたが今は強く劇的にやっているなと聴いていて思いました。第一楽章での奏法と第三楽章のそれが良い例です。

 

ちなみに、この曲を作曲していた頃のモーツァルトは1777年にパリで仕事を探していましたが、思うように見つからない時期でした。更に、その翌年には母親も亡くしています。その様な不満や悲しみが相まって、サッと駆けるこのソナタが生まれたと言えます。第二楽章の緩徐楽章では、穏やかに母との思い出を回想し、そっと哀悼するかの様な優しさを感じさせました。

 

 

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